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崖の上のポニョ 

82
監督:宮崎駿
(2008年 日本)


ぷかりふわりとクラゲに乗って、月の光を浴びるポニョ。

 あんなこと、してみたーい!

わたしの中の女の子玉(おんなのこだま)が叫んでしまう。
早くもこの段階でスクリーンの海に引き込まれている。
海の水もちょっぴり飲んでいて、潜っているときの水流の感覚まで甦ってくる。
またもや宮崎アニメの魔法にかかってしまった。

崖の上の一軒家に住む宗介。タカタカタカっと裏口から海へと崖を下りて来る。
波打ち際で瓶に填まったポニョを見つけ、助ける宗介の足を捕らえようとする波。
この生きてる波の描写が、海の怖さを思い出させる。と同時に、ジェントルマンな少年と金魚娘をめぐる不穏な展開を予期させる。

この作品がアンデルセンの「人魚姫」をモチーフにしているのは容易に想像はつくだろうが、スクリーンに現れた“金魚娘・ポニョ”を見るに、耐え忍んだり悲嘆に暮れる姿など微塵もない。
好奇心の本能丸出しの面構えは無邪気であり、ふてぶてしくもある。
「デブ金魚!」と言われて水鉄砲の報復を食らわすあたり、「自分が自分であって何が悪い!」との主張が頼もしい。この生命力、魂の強さが、ポニョの魅力なのだ。

<一途に我がままに、女の子玉がゆく>
ポニョの台詞は、我が意を表すまま。

 こんなのイヤ~!
 行く~!
 好き~!

歳がいもなく女の子玉が強いと言われる我が日常の台詞に近いぞ。困ったものだ。

“我がまま”とは、我が意を得ること。
一般的には「我が儘はいけない」と教わって、我慢が善いことのように刷り込まれる。
他人のことを考えなさい、自分の都合だけを考えて行動するのはいけない、我慢するこを覚えろ、と。
それは間違ってはいない。けど、「我が意」を曖昧にして、習い性の我慢を身につけてしまうと自分を見失うことになりかねない。

何かを果たすために辛抱するのが我慢。
相手あるいは状況を受け入るために、自分(我)を抑制するのも我慢。
しかし中には、前へ進むことを諦めている我慢もあれば、変化の逃げ道とする我慢もけっこうあるのではないだろうか。
“何だかよく分からないけど我慢”している感覚が自分にあるなら、何のための我慢の感覚なのか向き合ってみたらいい。
本人が周りのためにしている我慢が、案外、しなくていい我慢であったりもする。我が儘ではないつもりの我慢が、周りにとっては、その代償を求められたり八つ当たりされたりで有難くないかもしれない。
もともと我慢は、我(自分)の執着が起こす慢心のこと。“我が儘”の我(が)と共通しているところが面白い。

 人間になりたい!

ポニョの思いは我が儘なのか?
生きる原動力の我がままが、人間界にとっては凶暴な荒波を味方につけポニョがやって来る。

 タッタッタッタ タッタッタッタ

波を従え、波に乗り、走るポニョに悲壮感は微塵もない。

 いたー! 宗介、いたー!

歓喜の声が聞こえてしまう。
ポニョが、たびたび電池切れを起こしてネムネムになってしまうのは大変だからだね。何しろ、金魚が人間になろうとしているのだもの。

前半でなぜか泣けてきて、後半はポニョと宗介を応援して、
えー、もう終わりィ!?
思わず口にした1時間41分。

さて、ポニョに通じる女の子玉を隠し持つわたしが思うに、ポニョは絶対にハムよりベーコン派。ベーコンの味を覚えてしまったら、脂ッけの少ないハムでは物足りなくなるだろうな。

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山の郵便配達 

20080716a
監督:フォ・ジェンチイ
『那山 那人 那狗/Postmen in The Mountains』
(1999年 中国)


中国の山間地帯に向かう郵便配達員の父と息子と“次男坊”。
山を歩くにしては柔(やわ)じゃないかと思わせる布製のズック。父親は長いこと、そんな履き物で山の村々を行き来してきたらしい。慣れた足取りに合わせて、父の相棒犬“次男坊”が、あとを追ったり先導したりして付いて行く。
一日に約40キロ。三日に及ぶ二人と一匹の道のりは、父にとっては仕事納め、息子にとっては仕事始めの旅になる。

<どこであろうと、知的に暮らす人がいる>
町で働くこともできるのに……。
息子が父親と同じ道を選んでよいものなのか、胸中ちょっぴり心配しながら見送る母。
その母とともに父を見送り、帰りを待つ日々を過ごした息子は、いつからか父親に距離を置くようになっていた。

一見、単調そうな山の郵便配達員。その人生に何があるだろう。
夢や希望はあるのだろうか?
若い息子は、地味な仕事がつまらなくなったりはしないだろうか?

自分の世界とかけ離れた風景に、下世話な思いがちらっと過ぎる(よぎる)。
が、そんな厭らしい思いを浄化してしまうほどに、草の緑、田んぼの緑、山の緑の煙るような色彩が淡く優しく美しい。

息子への引き継ぎの旅の中で、ときおり回想する父。
若かった妻と出逢った日のこと。
恋したとき、愛しかったとき、息子が生まれたとき。
そして、多くは一緒に過ごせなかった幼い息子との思い出。
山里であろうと町であろうと、人生にはちゃんと出会いがあり、営みと育みの物語がある。
親子とともに配達ルートを進むにつれ、素朴で真っ当な人生の歩みに、人への愛しさが点されていく。

山、山、山、に囲まれた里の民家で息子が呟いた。
「昔からここに住んで、山以外何もない人たちだ」

かぶりは振らず、ぽつりぽつりと応える父。
「頭でものを考えてる。
 苦しみがあれば考えることで乗り越える。
 考えることなしに人生の喜びはない」

どこぞで仕入れた借りものの説教と違い、父の言葉に押し付けがましさはない。
安心と豊かさを求めてやまず、教養があっても悩める世の中がある一方で、自然の他に何も無く見える辺境の地が、かえって人の知性に磨きをかけるのか。
山里であろうとどこであろうと、知的に生きようとする者に知性は宿るのだ。
若い息子の台詞に通じる自分の驕り(おごり)を諭された。

郵便配達の道のりも終わりに近づき、橋で休憩する父と息子と、犬の“次男坊”。
突然の風に郵便物が飛ばされる。
仕事に慣れかけた息子の迂闊さが招くハプニング。
足を痛めているはずの父が飛脚のごとく走り出す。
おそらくあの父にも、長い配達員生活で、大事な郵便物を危険にさらす出来事があったに違いない。
郵便物どころか、命の危機だってあったのだ。

現在55の少数民族が在する中国には、今でも辺境の農村地域や山岳地帯をルートとする郵便配達人が実在するそうだ。
私の人生が経験しそうにない山の暮らし。
山には山に暮らす人がいて、海には海の暮らしがあり、町には町の、東京には東京の暮らしがある。
それぞれが生まれ落ち、選んだ場所の暮し向きが違おうと、考えることなしに暮らす人生に喜びはないことに違いはないのだ。

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